特別講演「名古屋のまちづくりの系譜と今のまちの様相 ―暮らしと環境の視点から―」/堀越哲美(愛知産業大学 学長, 名古屋工業大学 名誉教授)

2021年12月5日, 第45回 人間-生活環境系シンポジウム(名古屋)において

(光田大会長) これから、堀越哲美先生の特別講演を始めます。堀越哲美先生は、愛知産業大学学長で、名古屋工業大学名誉教授でいらっしゃいます。堀越先生の研究室では、地球環境を考慮した健康で豊かな生活環境を、自然との共存の中で見い出し、真の意味で快適な環境をデザインし提案することを考えてこられ、この学会でもご活躍の多くの研究者、技術者を輩出しておられます。

 コロナ禍にあり、気持ちが沈みがちなときに、日々、変わりゆく名古屋のまち、息づいているこのまちから、私自身も活力をもらいました。今、名古屋はリニア新幹線の開業も見据えた再整備が行われています。HES45を名古屋で開催するにあたり、皆様にも名古屋のまちを感じ、より深く知っていただきたく、名古屋のまちづくりプロジェクトにも関わっておられる堀越先生にご講演をお願いしました。堀越先生には、大変お忙しい中、心よくお引き受けくださり、本日、講演していただくこととなりました。堀越先生、ありがとうございます。それでは、堀越先生、ご講演よろしくお願いいたします。

(堀越先生) ただ今、ご紹介にあずかりました堀越です。本日はこのような機会を与えていただき、光田大会長、高田会長をはじめ、皆さんに感謝を申し上げます。こちらにあるように、暮らしと環境的な視点から、名古屋のまちづくりを見ていこうと思います。時間のある方は、聞いていただけるとありがたく思います。

 こちらは自己紹介です。学校と勤め先は、このようなことで、さまざまな所へ行きました。国外逃亡も2回ほどしました。カナダの国立研究所と、スウェーデンやデンマークの大学、ドイツのフライブルグ大学にも行ったことがあります。現在の愛知産業大学は、このような大学です。建築学科は大同大学と比較すると私のほうが小規模です。岡崎市にある藤川宿という東海道37番目の宿場町にあり、むらさき麦という芭蕉も詠んだ麦がある場所です。

1.名古屋の都市計画史

 まず初めに、名古屋の都市計画史について話したいと思います。名古屋の人でなければ知らないかもしれませんが、清洲越しというものがあります。これについては後で話しますが、江戸時代から平成、そして現在に至るまでの時代の話をします。いわゆる戦災復興の街でもあります。ここが大きな特色です。それが、これからは水と緑のまちづくりとなります。また、リニア新幹線ができます。そのようなことを含めた、まちづくりについて話したいと思います。

 こちらが名古屋駅の位置と方向です。東海道線は、東京から来る人も、大阪や京都から来る人も、東西に走っているように感じます。ところが、名古屋だけは、線が南北に走っています。現地へ行くと90度変わるため、例えば、大阪駅、京都駅、岐阜駅、豊橋駅、浜松駅などは、駅の本屋口へ出ると北側に出ますが、名古屋駅は北に出たつもりが東へ出るということで、変だなと間違う方がいます。そのようなところも、面白い街だと考えていただくとありがたいと思います。

 名古屋の地形は、こちらにあるように台地状の地形になっています。名古屋台地、御器所台地も同じで、大曽根に堆積された所ですが、あとは沖積平野、後に出てくる東部丘陵という第三紀層があるという地形の中で、名古屋城がこちらで、こちらに名古屋駅があります。名古屋城は台地の上に建ち、後ろを向くと大湿地帯でした。現在は、このような所に出来町通というものがあり、その端に徳川園があります。もともといい所にまちをつくったことがよく分かると思います。

https://www.nagoya-info.jp/feature/detail/24/参照)

2.名古屋のまちづくりの系譜

 その系譜について話したいと思います。清洲越しとは、清洲から名古屋へ徳川家康の命でまちを引っ越したということです。城の防御機能を高めるためにお掘りを造り、周りを囲みます。台地状に造ることにより防衛力を高めました。そこでもう一つできてきたものが碁盤割りの城下町です。グリッドプランです。これは今でも都心部に残っていますし、周囲もグリッドです。これについては後ほど話します。また、堀川という運河を開削しました。こちらは、名古屋城を造るために、熱田のほうから川を造ったということです。

 それにより基盤ができ、明治になって名古屋市の市制が施行されると、名古屋港が開港されます。鉄道建設が始まり、現代の名古屋の骨格ができてきました。1910年には、もう一つの運河である新堀川を造りました。左の地図が清洲越しの清洲です。流れているのは五条川で、庄内川につながります。水運がいいので、ここにまちをつくりました。ところが、ここでは洪水等が多くなり、引っ越すことになりました。こちらに幾つかまちの名前が付いていますが、このまちの名前が名古屋にそのまま移っています。現状で探すと、名古屋のまちは清洲の町名が生かされています。

https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/development/kiyosugoshi/参照)

 次に、右の絵を見ると知多半島があります。尾張国の絵です。この近辺がどのようになっているのかが、よく出ています。名古屋に移った時代のものです。江戸中期の当時の、名古屋城の古地図です。ここに城があります。見ると碁盤の目になっています。ここが武家地で、こちらが町人地です。真ん中には、今の本町通が通っています。それを下っていくと、ここが熱田です。港の七里の渡しがあります。随分と離れています。古墳の絵も描かれていることが分かると思います。( https://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000051341.html参照)

 そのような意味で、実は、東海道は名古屋を通っておらず、かなり離れています。昔の旅人は熱田へ来て、遊んで、船で桑名へ渡りました。それはなぜかといいますと、名古屋のまちがどうにも堅苦しくて寄りたくないということがあったようです。ところが、宗春という城主が現れたとき、名古屋は非常に派手になりました。その頃から少し変わってきたということだと思います。

 こちらは碁盤目です。城の中と武家地です。現在では商業地のグリッドプランです。万治年間の名古屋絵図です。よく出ています。尾張名所図会を見ると城があり、先ほどの地図と同じで、このように角になっています。こちらは武家地です。こちらも寺院のまちで、きれいなグリッドプランです。こちらは広小路という町人地です。今でも広小路通というものがあります。こちらは夜見世なので、非常ににぎわった夜の景観です。こちらは、堀川が桜の名所で、花見をするなどの舟運です。川で運ぶことが盛んだったことがよく分かると思います。こちらは熱田神宮です。現在とほとんど同じ様子です。賑わいがよく分かると思います。

https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-1160.php#2参照)

 明治まで、そのようにしてきました。近代都市計画が始まったのは大正からです。近代都市計画はどのようだったかというと、1919年に旧都市計画法による初の都市計画が行われました。名古屋が日本で初めてだといわれます。ここに出ていますが、耕地整理と区画整理によるまちづくりが始まります。ということは、江戸時代に始まったグリッドプランによる碁盤目状の街並みと、その周りの耕地または区画整理になる所が全て、今のようなグリッドプランになってきました。多少のずれがありますが、名古屋はグリッドプランのまちづくりが延々と続きます。

 緑関係では、明治40年に、現在の鶴舞公園は、整地をしたごみを埋め立てていました。それを整備して、明治43年に現在の鶴舞公園ができました。中村公園は政府から移管されまして、明治34年に着工し、大正12年に完成しました。先ほど、東部丘陵がありましたが、名古屋の東側に広大な緑地地帯があり、東山公園は昭和10年です。水関係では、江戸時代に堀川ができ、明治になり新堀川ができました。三つ目の運河として、中川運河が1926年に起工し1930年に竣工します。今、名古屋の都心には3本の運河があります。中には大きい川がありませんが、3本の運河が水のまち、ニュータウンを造ってきたと言えると思います。

 面白いのは下水処理です。都心部の栄の、最も南側に久屋大通公園があり、1930年に掘留水処理センターができました。下水処理の方法に活性汚泥法というものがあります。曝気をして、生物の働きで水をきれいにします。これは日本初でした。名古屋は、意外と知られていないところで日本初のものが多くあります。ところが、外の人たちは分かっておらず、実は、中の人たちもあまり意識しておらず、そこが面白いところです。

 後から出てくる、露橋水処理センターという下水処理場では、1933年に下水の簡易処理が始まりました。割合に早いです。伝馬町水処理センターは、大同町から神宮前に行く、神宮前にある下水処理場です。水と緑のまちづくりが、この時代に始まりました。

また、戦災復興事業は名古屋にとって非常に大きな出来事です。戦災復興都市計画は、戦後の1946年から始まりました。ここでは、理想的な産業都市、文化都市建設の機会だということで、将来の大都市への発展を期待して大胆な都市計画を策定しました。

 名古屋は、ご存じのとおり空襲に遭い、相当な被害を受けました。被災地の大部分を対象とした、大規模な土地区画整理事業が始まりました。名古屋の復興都市計画土地区画整理事業が始まり、土地区画ができ、整理組合等もできます。実は、驚くべきことに、名古屋の市域の約3分の2が区画整理でできました。

3.昭和から現在までの街づくりの特徴

 昭和の戦後から現在までは、どのような特徴があったのかを見てみたいと思います。昭和から平成です。戦災復興事業について、1945年9月29日に名古屋市再建の決議案ができました。復興調査会ができ、当時の市長は佐藤正俊です。賛否両論ですが、都市計画を実際に担ったのは、こちらに出ている田淵寿郎です。名古屋には名誉市民がこの人1人しかおらず、以降は出ていないという面白い事情があります。

 戦災復興計画の基本方針が政府で決められました。その中で、幹線道路は50メートル以上、緑地は市街地の1割以上を取ると決まりました。そこで、名古屋は100メートル道路2本と、50メートル道路9本を実現しました。土地区画整理の利用です。久屋大通が100メートルで、もう一本、直交して若宮大通があり、2本があります。皆さんが名古屋へ行くと分かりますが、1回の信号では渡れないような道があります。こちらが100メートル道路と50メートル道路の特徴です。100メートル道路の意味は、交通能力を増すだけではなく、一部を駐車場にすることです。また、建築様式の規模に適応することがあります。つまり、高いビルを建てても、ひけをとらないという意味があります。また、防災、保健、美観を考えてこのようにすることが決まりました。

 こちらが名古屋の復興都市計画図です。見ると、こちらが城で、この辺りに久屋大通があります。当時のものを少し模式化すると、こちらの太い線が久屋大通で、こちらが若宮大通の100メートル道路です。破線は50メートル道路です。名古屋駅はこちらです。桜通、広小路通がこのように出てきます。こちらは堀川、新堀川、中川運河です。こちらに熱田神宮があります。実は、囲われている所が台地です。本当なら湿地があり、この辺りが台地になり、こちらが丘陵地です。

 戦後まちづくりの特徴です。繰り返しになりますが、江戸時代からのグリッドプランで、碁盤目状の広幅員の道路です。そして整形区画の宅地です。また、小学校に隣接して街区公園を設置します。今も見ると、小学校の隣には必ず街区公園があります。また、墓地の集約です。平和公園という所に、名古屋市のほとんどの墓地を集約しています。先日もテレビに出ていましたが、名古屋に行くと迷う場所があるといい、それはどこかというと平和公園です。入ると墓だらけで、目的地に行けないという人もいます。そして、100メートル道路の実現です。広島でも100メートル道路を造りました。平和大通り1本だけです。名古屋は2本です。札幌の大通りも100メートルですが、こちらは明治期のため、随分と違うと思います。象徴となるものは久屋大通ということで、名前を覚えておいてほしいと思います。

https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medlib/history/contents.html参照)

 昭和から現代のまちづくりを見て、特徴は何かということで見ていただきます。こちらは、平成になる以前の昭和48年、緑のまちづくり構想というものを作りました。この当時、名古屋は緑比率が3割程度でした。現在は、22パーセント程度に下がっています。非常に緑が多い街でした。緑の総合計画が昭和55年です。都市景観条例が昭和59年です。都市景観基本計画が昭和62年にできます。平成2年には、都市緑化推進計画です。緑のグランドデザイン21を作りました。こちらを条例化するということで、私も手伝いました。平成13年に、名古屋市みどりの基本計画ができます。そして、風致地区の見直しや、上下水道構想、未着手道路の計画の整備方針、景観計画があります。

 長期未整備公園は、土地だけ埋めるのか、きちんと造るのかを見直すことです。後で出てきますが緑化地域制度があります。日本で初めてです。同時に、高度地区の拡充があります。さらに、名古屋市都市計画マスタープランや、基本計画の改定です。歴史まちづくり戦略は、名古屋は古いものを振り返り大事にしなかったところがありましたが、河村さんが市長になってからは、古いものを大事にしようという姿勢があり、このようなものができてきました。名古屋は、恐らく、これが最初で最後だと思いますが、重要伝統的建造物群保存地区で有松という所があり、鳴海と知立の間にある間の宿ですが、有松絞、鳴海絞で有名です。これを決定する際に関わりました。非常にいい体験をしました。

https://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000008169.html参照)

4.現在のまちづくりの状況

 ここで、平成23年の名古屋市都市計画マスタープランについて紹介したいと思います。現在の都市計画マスタープランは改訂があったのですが、平成23年に作ったマスタープランが基本的に引き継がれています。ここで大きく舵を切ったといいますか、考え方を少し変えました。高度経済成長から、将来は人口が頭打ちになり減っていきます。そうすると、まちづくりも縮退することが必要になります。そのようなことも考え、こちらにあるような長期的な人口減少や高齢化、地球環境問題への対応を考慮した都市構造を目指した取り組みを始めました。

 全体構想という官が行う構想と、地元の人たちが考えて行う地域別構想の2層構造にしました。そのようなことで、まちをより発展させていき、住民の意見を反映させようという考え方でマスタープランを作りました。都市レベルの視点と、地域レベルの視点でまちづくりをしました。新しく改訂したものは、そこに太平洋メガリージョンという太平洋ベルト地帯の中での位置づけを考え、SDGsを実施していくことを考えることが加わりました。

 その構想はどのようなものかといいますと、高齢社会、交流社会、地球環境問題、都市の効率的な維持管理に関する都市構造を作っていこうということです。出てきたものは、集約連携型都市構造の実現です。コンパクトシティーにしようということです。こちらにあるような「駅そば生活圏」です。つまり、鉄道駅または鉄道に近い交通機関の主要駅を中心に、800メートル圏に住もうというものです。そうすると徒歩で駅まで行けます。鉄道でいろいろなものを輸送することにより、高齢者でもハンディキャップを持つ人でも移動ができます。駅を中心とした生活圏をつくる構想を立てました。

(以下https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-10-9-4-0-0-0-0-0-0.html参照)

 ゾーニングは、緑を考えようということです。左の図を見ると、運河も含めて河川が多くあります。公園、緑地は丸で示しています。これらをうまく繋げると、三つの環境軸ができます。こちらで緑と水の回廊をつくります。風の道を名古屋に取り入れていこうということを、都市計画マスタープランの中で提案しました。ゾーニングですが、左は鉄道駅の全てと、主なバスの基幹路線を網羅しています。そして、駅から800メートル圏を円で囲みます。近い所は塗りつぶしていくと、「駅そば生活圏」は右側のようになります。今後は、こちらの「駅そば生活圏」の中でまちを中心にしていきます。その他の所は、徐々に縮退せざるを得ないだろう、そのような考え方です。ただし、残っている所は、緑地や水田や丘陵地などは、保全していくことになると思います。

 次は、断面で描くと、「駅そば生活圏」はこのようになるだろうというものです。平成になってからは、戦災復興が終わった後の都市計画を、バブル経済崩壊後の環境共生都市計画と呼んでいます。そのような意味で、1989年の20世紀までと、2001年の21世紀の間のバブルの影響を、環境意識のほうへ持っていきたいということです。例えば緑ですが、下の絵を見てください。右に平成2年には29.8パーセントと右に書いていますが、名古屋の緑被率は約3割です。平成27年には22パーセントまで下がっています。現在はといいますと、この5年後に測らなければいけなかったのですが、資金がないのでしませんでした。ぜひ、測ってほしいと言いましたが、聞いていただけませんでした。確かに手で読まなければいけないので、緑被率を出すのは大変です。

 こちらが名古屋の緑被分布です。割合に緑が多いです。特に、東部に多いです。東部丘陵、いわゆる第三紀層の台地より、もう少し高い丘陵地帯に緑が多くなります。緑化地域制度は、平成20年に日本で初めてできました。ある規模以上の敷地に新しく何かを作る場合には、緑化が義務づけられたことになります。懸命に緑を残していこうという考え方です。また、高度地区の拡充ということで、集約させて高い建物を造れるようにします。そうではない所は、それなりに規制する考え方が容認されてきました。

5.関係した名古屋まちづくりプロジェクト

 次に、私が関係してきた名古屋のまちづくりプロジェクトを紹介します。今のような流れの中で、清洲越しから江戸時代に名古屋の基盤ができ、明治時代に一つの区切りを迎えます。そして、近代都市計画が大正時代から始まります。いわゆる工業都市をつくってきた中で、戦災に遭い、戦後の戦災復興事業が行われ、以後のバルブ以降の環境共生を考えた、水と緑を大事にする都市計画に発展します。さらに、歴史的なものや文化的なものも活かしていこうということになっています。そのような中で、いろいろと関係したことを紹介します。

■名古屋市の都市気候実態調査

 初めに、こちらは市ではないのですが、名古屋市民による気温測定です。こちらは2015年に行われました。その前は2005年にも行いました。こちらは、我々の研究室で行ったものです。名古屋の気温を測定し、本日、ここにいる人たちにも随分と手伝ってもらいました。左は早朝の気温です。黄色い所は高温で周りが低く、きれいなヒートアイランドです。ところが、昼になると、高温の所が分散されます。とはいえ、中川運河や堀川の辺りは温度が低いです。海風が流れてきて、恐らく、風の道として働いています。特に、庄内川辺りの温度が低くなっています。大きな川です。

 例えば、こちらの緑の所は熱田神宮です。外の国道1号線は36℃です。ところが、中は32℃で、温度差は4℃もあります。緑の効果が非常に大きいです。次は、堀川、新堀川の風の道です。筑波大学の橋本先生が懸命に観測してくれた成果です。こちらを見ていくと、こちらは気温、こちらは風速です。風速は、河口から9km程度までは3m/sほどありますが、そこからストンと落ちます。どういうことかといいますと、気温が34.5℃だったものが32℃程度になるということで、ここまでは冷たい海風が遡上しているのだろうということです。橋本先生には、随分といろいろとやってもらい助かっています。

 また、丘陵地から冷たい風が染み出してきます。そのようなことも考えて行ってきましたが、名古屋全体でも知りたい、緑の効果がそのような所にもあるのではないかということで、名古屋の植物関係の市民や団体が気温測定をやろうということになりました。初めに行われたのは1991年です。東部丘陵の緑が多い所で行いました。名古屋にオリンピックを誘致し、競技場を作るので、影響を知っておいたほうがいいということで始まりました。それが終わった後で、次は全域でやろうといって2005年に行いました。こちらは、愛・地球博の機会に行いました。

 2015年は、2005年に行ったので、10年後を見ようということで、結局は3回行いました。毎回、400人程度が出て、200カ所ほどで朝5時から夜8時まで同時多点観測をしました。世界的にも、他には行っていないのではないかというほどのことです。こちらは2015年のものですが、朝5時のデータを見ると、名古屋駅や栄など西部が白くなっています。ところが、東山公園、平和公園などの東部丘陵地は温度が非常に低く24℃程度です。また、小幡緑地などの緑地は非常に低いです。昼間になると、東山公園は残っていますが、都心部はかなり赤くなり35℃を超えます。ところが色が薄い所があり、こちらは海風が吹走することがよく分かります。

 このようにして地域分類すると、赤い都心部と東部の丘陵地、その他の沖積平野部は、きれいに温度分布パターンが分かれます。ヒートアイランドが非常に明確に出ていることが分かりました。ところが2015年になると、多少、様子が変わります。こちらは、同じ朝5時ですが、南区や駅、栄辺りの都心部がきれいなヒートアイランドになっており、周りが非常に低いです。こちらの天白渓は、名古屋で最も気温が低い所です。昼間になると、やはりこのような丘陵地は低いです。都心部はあまり低くなく、工場地帯などの西側が高くなっています。

 これはなぜだろうといろいろと考えましたが、開発されてきたことや、都心部は冷房を使っているため、温度をきちんと測ってはいるけれども、周囲のそのような影響が出てきたことも考えられます。また、ビルが大きくなると日陰になります。地上付近で測っていると、相対的に温度が低くなってくるため、都市が発展していく中での複雑さを感じました。  こちらは東部丘陵のみです。温度がかなり低いです。昼間になるとこのようになり、道路で低い温度の所が分断されます。こちらは、WBGTの時間変動です。警戒と厳重警戒と危険の基準を示します。場所により、厳重警戒になるかならないかの場所がありますが、代表的な所を取ると、都心部などはWBGTが35℃近くになっていて、相当な危険が出てきたことが分かります。こちらは、高温の出現が見られる所の建築の確認数です。中川区は急激に伸びてきました。西側ですが、開発行為が大きくなり、都市化されたことがよく分かります。

 このようなことをして、何がいいかといいますと、市民の実感として数値化するということです。また、皆で市民活動として行うということです。同時多点観測であり、分布の正確性を図る科学的な意義があります。そして、行政、企業、社会への発信性と、共有の感覚があることで、このような活動もいいと思います。

■露橋下水処理場の上空利用

 次に、先ほども出てきた露橋という下水処理場の上空利用についてです。浄水場、下水処理場を新しくするために地下化すると、上空が空きます。そこをどのように使うかという提案をしました。こちらは広見の広見憩いの杜です。右下は、古い浄水場を工事しているところです。このように、皆が来られる場にして、地下に全て埋めました。出来上がった現状の姿がこちらです。円形が見えますが、こちらは古い円形の処理槽をイメージとして残し、市民に開放しています。

■栄地区と久屋大通再生事業

 次に、栄地区と久屋大通の再生事業です。テレビ塔で有名な久屋大通ですが、先ほども出てきた戦災復興の一つのシンボルです。久屋大通は栄地区にあります。名古屋は、駅にJRセントラルタワーズやトヨタのビルなど、超高層ビルが建ちました。大きなジェイアール名古屋タカシマヤができると、商業地として皆がそちらへ行きます。栄の商業的な価値が下がってきました。元は、松坂屋や三越があり、閉店しましたが丸栄という百貨店がありました。そのような意味で、駅のほうに人が集まってきました。栄を復興させて、名古屋駅と両方で携えて発展していきたいということで、このようなまちづくりプロジェクトがあります。平成25年以前から関わっています。

 名古屋の課題は、こちらに書いているように、超高層ビルによる名古屋駅開発で商業の低迷、人出の減少、オフィスビルの老朽化などがあったため、賑わいや憩い、親しみを感じる人間性豊かなものをつくっていきたいということになりました。久屋大通には、幾つかのゾーンがあります。そのゾーンごとに特徴を持たせ、それを活性化していこうということが一つです。もう一つは、名古屋駅と名古屋城、栄という、三つの名古屋のシンボルを連携させることが大事です。初めに栄地区のグランドビジョンを作りました。右にあるように、東西の駅からの通りと南北の久屋大通を軸として、「栄まるごと感動空間」というものです。実は、私は「栄まるごとテーマパーク」と言いましたが、テーマパークはまずいということで、感動空間にしました。

https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-10-17-0-0-0-0-0-0-0.html参照)

 名古屋は、皆、地下へ逃げるので、地上と地下をうまくつなげていこうという提案をしてきました。都会の三つの場所を区切り、にぎわい性などの特色を持たせようということをしました。考え方をつくり、このような姿をつくってきました。在り方を提案し、これにより、新しい考え方を公募しました。パークPFIというものを日本で初めて適用し、一番、大きくシンボル的な場所で日本初のパークPFIによる再生事業を行うことになりました。これまで、PFIという民間企業の力を利用していろいろなことに使ってきましたが、公園にも適用してよいことになったので、その第1号です。

 コンペにより、このような案が出てきたので、採用しようということになりました。こちらが計画概要です。こちらが、開業直前の久屋大通パークです。屋根の形がでこぼことしています。当初は、もう少しフラットで連関性があるものでしたが、いざ実施してみるとこのようになりました。こちらは完成した姿です。左側を見ると分かりますが、仕上がってみると、道路から見たときに後ろ向きです。これはよくないです。こちらは現在の姿です。ますます後ろ向きです。絶対に止めてほしいと言いましたが、実際にはこのようになってしまいます。そこで、少し改善してもらうということで進めています。

 現在、できた姿がこちらです。水盤を張り、芝生をつくり、人々が来たのはいいのですが、コロナでそれほど集まっていません。また、バスターミナルがありましたが、それを廃止しました。こちらも跡地の提案事業で「ひろばす」というものを作りました。こちらは現地の写真です。カフェとコンビニがあり、子どもたちが遊べる広場を提案しました。また、桜通という駅前の通りがあり、サトザクラが植えられています。これらをもう少し整備し直し、桜の時季に移り変わって咲くようにしようということにも、最近は携わっています。

■リニア新幹線開業へ向けた名古屋駅周辺の開発

 リニア新幹線に向けた名古屋駅の開発です。リニア新幹線は静岡でもめていますが、名古屋へ来ます。そうすると、名古屋城の辺りを通り名古屋駅へ来て、現在の新幹線と直行する形で入って来ます。このようなホームになります。そこで、この際、名古屋駅をスーパーターミナルにしようということでプロジェクトが始まりました。スーパーターミナルとはこのようなもので、広域の交通圏や都市圏の構造を変える、大都市の玄関口にしたいということです。名古屋の駅周辺の全体計画としては、東西も南北もつないでいきます。

https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-10-20-0-0-0-0-0-0-0.html参照)

 もう一つ大事なことは、乗り換えが非常に分かりにくいことです。皆さんも、恐らく、名古屋駅から名鉄に乗り大同大学へ来るときには、名鉄に乗るのに大変で、場所がよく分からないと思います。あのようなことを直そうということで分析をしています。移動交通の絵を描くと非常に複雑です。これをもう少し分かりやすくしたいということで、ターミナルスクエアというものを東口に3カ所、西口に2カ所作ります。ここへ行けば、どこでどのように乗り換えるのかが分かり、体感できるものにすることを中心に造り替えます。例えば、このようなものです。こちらへ来れば、いろいろと見渡すことができる空間をつくり、整備します。

 現在、決まっているのは、名古屋駅の東口がありますが、ここに「飛翔」というモニュメントがあり、これを取り、ロータリーだったものを三差路に変えます。そして広場を広くして、ターミナルスクエアを充実させます。太閤口の西口は、こちらに建物を建てるのか分からないため、暫定的にここに広場を作り、見通しがいいものにして、名古屋の街と新幹線と広場がつながるものにします。これに対してプロポーザルにしました。応募をして最優秀案が決まりました。このプロジェクトは、大同大学の米澤先生が取りました。私の研究室の出身でもあり、今後具体的に進んでいくことになります。

https://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/page/0000142117.html参照)

■これからのリニアが来る名古屋のまちづくりをどう考えるか

 これからリニアが来る名古屋のまちづくりを、どのように考えるかということです。名古屋のSWOT分析を、私なりにしてみました。なかなか難しいです。強みとしては、リニアモーターカーと国際空港などを考えます。弱みとしては、外へ出たがらない市民性や、突出を好まないなどいろいろなことがあります。そのようなことも含めて考えると、水と緑の都市資産創生の都市計画ではないかということを考えました。

 こちらは、実は2010年に名古屋は開府400年を迎えました。そのとき、河村さんに頼んで資金を出してもらい、開府500年の名古屋を考えさせてほしいと言い提案しました。これから100年のテーマとしては、『生存圏の確保』、『時代の記憶を残す』、『記憶に残るまち・体感できるまち・新陳代謝するまち・繋がるまち』を創っていこうということで、『緑都改正』をしてはどうかと提案しました。そうすると、例えば、このような3本の運河があり、その他に郊外に庄内川、天白川があり、このようなものをうまくつないだ交通経済軸と、都心環境軸、自然を残す緑の副環境軸をつくります。そして、産業集積や田園都市を考えていくといいと思います。

■堀越研究室 名古屋関係プロジェクト

 研究室でのプロジェクトを紹介します。このように、数多く関わることができました。初めは「名古屋風の道計画」です。そのようなものを、模型を作りながら提案します。LRTを走らせることや、ビール工場の跡地計画、堀川を改造していくこと、納屋橋界隈という繁華街を緑化していこうというものなどです。そのようなことで、都心部をなるべく自然を体感できる街に、これからはできるのではないかということです。久屋大通にLRTを入れることも考えていました。

 こちらは学生が制作したものです。有名なナナちゃん人形をいろいろな所に入れて、地下から地上に出してしまうと地下と地上がつながるという提案など、大胆にいろいろなことを言ってみました。このように、下に水路を持っていきます。こちらは、名古屋の地域冷暖房をつないでみてはどうかというものです。下水処理場の水を使う案は実現されました。このようなことを行ってきました。そうすると、新聞でも学生の活躍を取り上げてくれました。私としても、楽しいまちづくりに関与させてもらいました。

 このようなことができたのも、研究室の皆さんのおかげでもあるし、名古屋市や国土交通省、愛知県など、自治体のいろいろな人たちのおかげだと思います。なかなか語り尽くせないですが、大雑把な話でしたが、名古屋のまちづくりについてお話させていただきました。

質疑応答

(光田大会長) 堀越先生どうもありがとうございました。せっかくの機会ですから、ご質問のある方は挙手をお願いします。高田先生、お願いします。

(高田学会長) 堀越先生、ご講演ありがとうございました。大変、興味深く拝聴させていただきました。神戸大学の高田です。江戸時代の町割りの話から始まりました。江戸時代のグリッドプランと現在のグリッドプランは、恐らく、関連していると思いますが、それを利用したと考えてよろしいですか。江戸時代の町割りを、今のグリッドプランに引き継いだといいますか、一部は利用していると考えているとよろしいですか。

(堀越先生) 利用しているといいますか、そのまま残っています。名古屋城から下りてきて歩くと、広小路通があります。その辺りまで、縦に伊勢町や桑名町などの名前が付いていますが、昔のままです。その碁盤区画がそのまま残っています。その周りは、大正時代の耕地整理と、戦後の震災復興の土地区画整理事業をしたもので、全て江戸時代のものを中心に発展し、つながっている構造です。

(高田学会長) 江戸時代と比べると、恐らく、道幅を広げたと思います。

(堀越先生) 江戸時代から、現状のかなりの道幅を取っていました。先ほど、古い地図がありましたが、しっかりしていました。それだけの道幅は取っていたと思います。

(高田学会長) そもそも、グリッドが大きかったことがあり、さらに道幅も広かったということですか。

(堀越先生) そうです。

(高田学会長) そして戦後に広げて、縮退という話が出ました。広げた縮退のところで、駅中心のプランでした。縮め方の見通しとしては、駅中心の800メートル半径ということで十分でしょうか。

(堀越先生) 難しいところです。名古屋駅の辺りは、必ずしも正形になっていない所があります。東西の100メートル道路は名古屋駅に続いています。これが一つの幹線で、広小路通や桜通、錦通といった通り自身が東西軸に非常に強いです。新しい街としては、それを活かしてほしいです。その間の通りを、江戸時代のものに使っていく話もあり、活かしていくようにしたいと思います。

(高田学会長) ありがとうございました。

(光田大会長) オンラインのほうから手が挙がっています。

(松原先生) 先生の話を伺っていて思うのは、我々でも「建物はこのようにあればいい、都市はこのようにあればいい」と断片的に思いつくことはいろいろありますが、現実に行政を動かし、市長を動かすことは、堀越先生ならでは、のことだと思います。そのようなコミュニケーション力について、人間−生活環境系をよくすることを実践しておられる先生のお立場から、現在の学会員に対して、何か示唆していただけたらと思います。

(堀越先生) 私自身には人間力はないと思います。一つは、地道に研究をして、その成果をしっかり発信することが大事だと思います。もう一つは、行政を動かすのは、行政に直接というよりも、市民の中でどのように考えているのか、市民と一緒に共同して何かをしていくところが、比較的重要ではないかと思います。風の道もそうです。気温測定につながり、「そのときに風が通ります」と言うと「そうです」となります。

 商工会議所から話があったときも、一緒にやりましょうという話があり、「これからは環境の時代だから、このようなことを考えます」という話をして、名古屋はこのようなものができていますと話をしていくと、徐々に行政にも伝わるということがあります。ですから、自分が正しいと思ったことをしっかり研究や調査をして、しっかり発信していくことが大事だと思います。

(松原先生) この学会は、「人間-生活環境系」を名乗っているので、今、おっしゃっていただいたようなことを、より頑張っていかなければならないと思いました。どうもありがとうございました。

(光田大会長) オンラインの森先生、お願いいたします。

(森先生) 産総研の森です。先生、ご無沙汰しております。母方の実家が名古屋なので、非常に興味深くお話を聞かせていただきました。先生が言われた、駅半径800メートルのコンパクトシティーは、これから先、現実に必要となる施策だと思います。しかし、実際にマップを見たときに、私の所は赤くなっていない、白だという個人や自治体があると思います。それを形に集約していくための、具体的な方法や進め方について、先生のご意見を聞かせていただけるとうれしいです。

(堀越先生) まさにそのとおりです。個人の話になると、自分の所はないではないかと言われます。ただし、そこで出てきたのが先ほども言った二重構造です。まち全体に網を掛けてそのようにしますというのではなく、地域のことは地域で決めてもらいます。都市計画も提案制度ができました。地区の人で地区計画を練ってもらうと、必ず800メートルの中にいなくてもいいわけです。そのように、地域の人たちが自分たちで決め、相談していくためのコーディネーターが必要です。そのコーディネーターを育成することが非常に大事です。こちらを計画したときも、そのような話をしましたが、なかなかそうもいきませんでした。その辺は、NPOの人たちが担わざるを得ません。そのような意味では、官と共同で共に働くことが必要だと思います。仕組みとしては、上からやるようにというのではなく、提案性を大事にし、地元に根づいた計画にすることが大事だと思います。

(光田大会長) 他にはよろしいでしょうか。五十嵐先生、お願いします。

(五十嵐先生) 堀越先生ありがとうございました。先生の都市計画の話を伺っていて、会場の方はご存じないかもしれませんが、2年前に都市計画法100周年記念で先生が表彰されました。私も、都市計画委員会を10年したので表彰されましたが、私は単に委員をしただけですが、先生の話を伺い、実際に学生と一緒に研究も含めて地域に貢献されたことは、改めて素晴らしいと感じました。

 一つ教えていただきたいのは、緑被率についてです。名古屋の場合は、公園など公共空間での緑被率を高めることを進めたようです。新潟市は公園が少ないです。住宅のブロック塀が危ないので、垣根を作るためにある程度の距離以上なら助成金を出すという形でしていますが、あまり進みません。どうしたらいいのか、教えていただけたらと思います。

(堀越先生) 名古屋も緑化制度を作りました。緑被率ですと裸地もOKになります。緑化制度ではそれは駄目で、きちんと植えなさいとなります。特に、風致地区の場合には、少しばかり植えても困るので、しっかりとボリュームを持たせることを指導します。確認申請を取るときに、必ず適正にしてもらいます名古屋は、その辺の行政の力が強いのでうまくいっていると思います。

 名古屋も、今の緑地を増やすのではなく、市街地は西側が少ないので、例えば、300平米以上であれば、コンビニエンスストアなどでは必ず行ってもらわないと困ります。緑化にしっかりと取り組んでもらう緑化制度を作り、それを適正に運用していかなければなりません。それは、どこでも問題になるのですが、県の風致地区のときにも、このようなものを植えてしまえば済むというようなことはやめようということです。上から見て、投影面積が確保していける手段が、ある程度、確保されていることを行う方向を検討してほしいとお願いしています。実現には至りませんが、現場の人たちは努力していただいているようです。

(光田大会長) そろそろお時間ですが、よろしいでしょうか。堀越先生、本日はご講演をありがとうございました。今回、コロナ禍で名古屋にお越しいただけない方もおられます。現地にお越しいただいた方も、それほどまち歩きはしていただけない状況です。現地参加の方も、オンライン参加の方も、機会があれば、ぜひ名古屋にお越しいただき、名古屋駅の使いやすさをチェックしながら、そのときどきの名古屋のまちを感じていただけましたら幸いに存じます。堀越先生、本日はどうもありがとうございました。

参考

文中で言及した資料は以下を参照ください

A .名古屋市の施策・事業については下記の名古屋市H Pを参照ください

1)リニア中央新幹線の開業に向けた都心まちづくり:

https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-10-20-0-0-0-0-0-0-0.html

2)名古屋駅西側エリア(リニア開業時の姿)デザイン検討業務を委託に係る公募型プロポーザルの審査結果について:

https://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/page/0000142117.html

3)栄まちづくりプロジェクト」

https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-10-17-0-0-0-0-0-0-0.html

4)都市計画マスタープラン

https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-10-9-4-0-0-0-0-0-0.html

5)緑化地域の制度

https://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000008169.html

B.地図などについては下記HPを参照ください

1)戦災復興図:

名古屋大学医学部資料室HP

https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medlib/history/contents.html

2)名古屋・尾張古地図:

名古屋公式観光情報 名古屋コンシェルジュHP

https://www.nagoya-info.jp/feature/detail/24/

特別史跡名古屋城HP

https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/development/kiyosugoshi/

名古屋市HP 「尾張国絵図」徳川美術館蔵

https://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000051341.html

尾張名所図会

https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-1160.php#2

(了)