Vol.34 2024年11月
光田 恵(大同大学)
嗅覚は、人類の進化の過程で大切な役割を果たしてきました。約2億5千万年前、恐竜が地球に現れた頃、私たちの祖先である初期の哺乳類も登場しました。主に夜行性で、大きな動物から身を隠しながら、暗闇の中で活発に活動していました。このような環境では、鋭い嗅覚が生き残るための大きな武器となりました。このおかげで、食べ物を見つけたり、捕食者から逃げたりすることができたのです。特に、昆虫や果物のにおいを嗅ぎ分ける能力は、生活において非常に重要でした。その後、約6500万年前には霊長類が現れ、人類の祖先が姿を現します。この時期、生活様式にも変化がみられ、視覚の重要性が高まり、嗅覚に頼る場面が減っていったのです。かつては、1000種類ほどの嗅覚受容体が機能していたと言われていますが、現在、機能している人間の嗅覚受容体は、約400種類です。嗅覚受容体の数の減少は、視覚の重要性の高まり、生活スタイルや環境、社会的な交流の変化などの影響によるものと考えられています。
それでも、嗅覚は五感の中でも特別な役割を果たしており、記憶や感情と深く結びついています。その大きな特徴の一つは、記憶と強く結びついていることです。フランスの作家マルセル・プルーストが描いた「プルースト効果」では、特定のにおいを嗅ぐことで、過去の出来事や感情が鮮やかに甦る様子が語られています。小説の中では、紅茶とひとかけらのマドレーヌを口に運んだ時の香りが幼少期の思い出を呼び起こす場面があり、嗅覚がどれほど強力な記憶のトリガーとなるかを示しています。嗅覚信号は、他の感覚が経由する視床を経ず、直接、大脳辺縁系に届きます。この部分は感情や本能に深く関わっており、記憶を司る海馬や感情を調整する扁桃体と密接に結びついています。そのため、においは、他の感覚よりも瞬時に記憶や感情を呼び起こすことができるのです。こうしてみると、嗅覚の歴史は、人類の進化や生活の変化を反映しており、感覚の豊かさや記憶、感情に大きな影響を与えていることがわかります。
さらに、嗅覚には個人差があります。人それぞれの遺伝や経験、文化的背景が影響を与えます。ある人が好きな香りでも、他の人には不快に感じられることがあります。においに対する感じ方は、個人の経験や記憶に大きく左右されるのです。嗅覚は年齢や健康状態によっても変わることがあります。T&Tオルファクトメーター5基準臭を使用する嗅覚検査(においの判定試験に適した嗅覚であるかどうかの判定を行う検査)の合否の結果をみると、30歳代以降、徐々に嗅力が低下し、特に60歳以上では、合格率が約50%という結果があります(図)。嗅細胞は新しく生まれ変わりますので、活性化を促進するためには、日常的ににおいを意識し、嗅覚を鍛えることが大切です。
このように、におい感覚は単なる生理的な機能を超えて、私たちの心や文化、生活に深く関わっています。においは、私たちの生活に彩りを与える大切な存在といえるのではないでしょうか。
【参考文献】
- 萬羽郁子,棚村壽三,光田恵 2017:若年層と中高年層のたばこ臭評価の比較,日本建築学会大会学術講演梗概集,D-2,653/656.
- 萬羽郁子,光田恵 2024:においの認知度およびにおい評価の性差・年齢差の検討—においを嗅いだ経験と嗜好性に着目して—,におい・かおり環境学会誌,55(2),90/97.
- 光田恵,棚村壽三,寺澤態洋,長谷博子 2010:たばこ臭の評価に関する研究第1報喫煙者と非喫煙者の評価,第34回人間-生活系シンポジウム報告集,49/50.
イラスト:石松 丈佳(名古屋工業大学)、田代 翔馬(名古屋工業大学)